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- ウクライナ軍の反攻が東部の要衝で始まった。
- ウクライナ兵は衣類や医薬品などの支援物資を届けるためにポパスナに通っていた。
- ポパスナに派遣されていた兵士はドンバス紛争で3年半の戦闘経験がある。
- ウクライナ軍は武器が不足しており、12.7ミリ口径のマシンガンだけで抵抗していた。
- 膠着状態にあった前線が決壊し、ロシア軍の陣地が確認された。
- ウクライナ軍はロシア軍との戦闘中に誤射される事態に遭遇した。
- ウクライナ軍の一部がパニックに陥り、ロシア軍はポパスナの町を乗り越えて進軍した。
【ルポ】激戦地バフムート、「捨て石」のリアル…前線で戦う現役兵士や家族の証言
<血で血を洗う戦いが続いた東部の要衝、ウクライナ軍の反攻が始まったが、死と隣り合わせの消耗戦の地で兵士たちはどう戦ってきたのか> 昨年4月、ウクライナ南東部での撮影を目指して再入国した筆者に、あるボランティアの女性がこう問いかけた。「ポパスナって知ってる?」 義理の弟がウクライナ兵として東部戦線で戦っていたオレガ・ケチェジ(48)は、衣類や医薬品、調理器具などの支援物資を届けるためその町に通っていた。東部ドネツク州バフムートから伸びる幹線道路H32を東に20キロ。戦況の変化を伝える地図アプリ「ディープステートマップ」を見ると、当時は東部ルハンスク州ポパスナに接する形でロシア軍占領地が迫っていたことが分かる。首都キーウの陥落に失敗したロシア軍はドンバスの完全占領をもくろみ、部隊を東部へ移動させていた。 義弟が東部戦線で戦うオレガ PHOTOGRAPH BY TAKASHI OZAKI その頃、ポパスナに派遣されていた兵士がいる。ウクライナ地上軍の戦術部隊、第24独立機械化旅団に所属していたミコラ・カールポフ(37)だ。2015年に入隊し、ドンバス紛争で3年半の戦闘経験がある彼にとっても、今回は想像を超える現場だったという。 「敵陣からさまざまな種類のミサイルが飛んできて、1日で200~300人もの兵士が負傷することもあった。ルハンスク州は森や藪が多く、とても危険だ。待ち伏せされたり、罠を仕掛けられても見抜けない」 1世紀前の世界大戦を思い起こさせるような地上戦が展開したウクライナ戦争。待望の最新型戦闘機F16の欧州からの供与が決まるのは1年以上も後のことだ。機械化旅団は戦車や装甲車を多数装備し、攻撃力、起動力の高い部隊のはずだが、実際は武器が不足し、12.7ミリ口径のマシンガンだけで抵抗することも珍しくなかったという。 開戦から2カ月が過ぎた4月末、膠着状態にあった前線が西側に決壊した日があった。「朝5時、夜が明けるとロシア軍の陣地が確認できた。その後、敵の歩兵が左前方から進軍してきた。37人まで数えたところで、右からも囲まれていることに気付いた。私は大隊に状況を伝えるため部下を伝令に送ったが、その5分後に銃声が響いたんだ」 14人の小隊は急きょ撤退。その途中、ミコラは頭部に手榴弾の破片を受け負傷した。そして自陣に近づいたとき思わぬ事態に遭遇する。 「(ウクライナの)大隊の方向から発砲された。ロシア軍がいる東側から来たわれわれを敵と勘違いしたようだ」 ポパスナで負傷したミコラ PHOTOGRAPH BY TAKASHI OZAKI ウクライナ軍には戦闘経験のない新兵が多く、部隊の一部がパニックに陥ったとミコラは振り返る。開戦64日目の4月28日、ロシア軍はポパスナの町を乗り越えるように、2キロほど西に進軍した。支配地域の境目を示すラインがバフムートに近づき始めた。 ===== 砲撃された集合住宅の部屋(1月13日、バフムート) PHOTOGRAPH BY TAKASHI OZAKI 筆者がバフムートに関心を持ち始めたのは、ウクライナで出会った兵士の多くが後にその地で戦うことになったからだ。傷を負って倒れたと届く知らせのほとんどもバフムートからだった。 この街をロシア軍が突破すれば、クラマトルスクなど東部の中心都市に到達する恐れがある。一方で、バフムートには争奪の対象になる資源や産業があるわけではないともいわれる。高台に囲まれ、町の中央が川で隔てられていることで膠着状態が続き、結果的に攻防の象徴的存在になって多数の死傷者が出た。 ウクライナの人々はそこでどんな戦いを強いられたのか。現役兵士が戦闘の詳細を語ることが困難ななか、前線で戦う彼らを訪ね歩いた。 スナイパーが見たものは 昨年2月、ロンドンに本部がある国際戦略研究所が発表した「ミリタリーバランス」によると、ロシアの現役兵90万人に対し、ウクライナは20万人弱。ウクライナは18~60歳の成人男性の出国を原則禁止し、開戦翌日に予備役の招集を始めた。 その結果49万人の増員を達成したものの、戦闘を継続しながら3倍以上に膨らんだ兵員の調整や訓練に追われることになった。 兵器の差も大きかった。ウクライナ軍が所有する戦闘車両はロシア軍の2割、戦闘機は1割未満にとどまっていた。欧米メディアから「巨人と少年」と評された戦力差を埋めようとしたのが、ドローン部隊と熟練スナイパーだった。 第118旅団偵察中隊の下級航空兵ビタリー・ブロフチェンコ(39)は、高倍率のスコープを備えた銃を操るスナイパーだ。開戦後、その腕を見込まれ、ルハンスクや南東部の都市ザポリッジャなどの前線で戦ってきた。 ロシア軍は昨年8月中旬、幹線道路M03とH32が交わる地点に侵攻し、バフムート市街まで数キロに迫った。ビタリーがバフムートに派遣されたのは10月。その頃、ロシアの部隊は町の南方面に陣地を広げ、バフムートを半包囲状態にしていた。 ウクライナ軍が管理できていた唯一の道0506から市内に入ると、ビタリーは容赦ない攻撃にさらされた。「敵は至る所で激しい砲撃を仕掛けてきた。(ロシアの民間軍事会社ワグネルが)刑務所でスカウトした傭兵部隊だと侮るのは禁物だ。そこで、われわれはより軽量の銃を携行して敵の動きを見定めることに時間を費やした。スナイパーは狙撃の名手である前に、優秀な偵察兵でなくてはいけないからだ」 ===== スナイパーのビタリー(5月10日) PHOTOGRAPH BY TAKASHI OZAKI 建物の高層階や塹壕に身を隠し、500メートルほどに迫った敵の部隊を観察すること2時間。ビタリーは歩兵が移動を始めたタイミングで引き金を引く。それに合わせて、そばで待機する隊員たちが一斉にマシンガンを放つ。録画機能を備えたスコープの映像を見せてもらうと、逃げ惑った末に倒れ込む敵兵の姿があった。 弁護士を志望していたものの、機械に触れているのが性に合うと、この道を選んだビタリー。故郷に残した愛車の日本製オートバイの写真を眺めながら、バフムート近郊での待機時間を過ごしていた。 一世代前の兵器も総動員された東部戦線で、ひときわ異彩を放ったのが小型の無人機ドローンだ。カミカゼと命名されたドローンで自爆攻撃を仕掛けるロシア軍に対し、ウクライナ軍のドローンは主に偵察とミサイル投下の役目を担ってきた。 「ウクライナ軍は頭で戦うのさ」と語っていた彼らの前線本部を目にする機会があった。バフムートから20キロ。地方に行けばどこにでもありそうな農村の民家だった。 頑丈な鉄の扉を通り、建物の地下へ降りる。壁の大型モニターに映るのは、ドローンのカメラが捉えたバフムート東側のロシア軍占領地だ。サブモニターに表示されたドローン操縦者のイニシャルは18人分。その1人に向かって司令官が話す。「あの建物が怪しい。回り込んでみろ」 ドローンは斜め右から旋回し、建物の窓を捉えた状態でホバリングする。そしてロシア兵が潜んでいるかどうか、白黒がはっきりするまで監視を続ける。 別の基地にあったのは、ドローンで投下するミサイル用の羽根を作る3Dプリンターだった。当初、1台だけだったプリンターはその後4台に増えた。「クククク」と小刻みに動くプリンターの音と「ドドドド」と鳴る発電機の音が、インフラが途絶えた前線の村で交錯していた。 屋外ではロシア軍のドローンを攻撃する訓練も行われていた。銃弾が通る穴がない、角材状の銃で遠く離れたドローン目がけて電磁波を照射し、制御不能にするのだという。銃を構えていたアントン(25)は「1丁90万グリブナ(約340万円)もするんだぞ」と言って自慢していた。民生のハイテク機器と招集されたITエンジニアの兵士たちが、東部戦線で日夜奮闘していた。 ===== ワグネルの兵士が持っていた認識票とワッペン、ルーブル紙幣(3月21日) PHOTOGRAPH BY TAKASHI OZAKI 東部ハルキウ州南部のイジューム、ドネツク州北部のリマンなどロシア軍に占領された町を次々と解放していったウクライナ軍。しかし、バフムートをめぐる状況に好転の兆しは表れなかった。 8月1日、ロシア軍がバフムート南東部への地上攻撃を開始。 9月22日、市内の中央を流れるバフムートカ川の橋が破壊され、住民の移動と物流が困難になる。 11月5日までに120人以上の民間人が殺害されたと、バフムートの副市長が伝える。 12月9日、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、「バフムートは焼け野原になった」と表現した。7万1000人の住民のうち、年を越えても約6000人が町に残り、子供も200人ほどいたという。 バフムートがあるドネツク州の住民に対し、政府が避難命令を出したのは昨年7月。インフラ施設が破壊され、暖房に必要なガスの供給ができないことが理由だった。厳冬期を迎えて水、電気、ガスが途絶えても町にとどまる住民には、移動が困難な高齢者やその家族、親ロシア派と呼ばれる人たちが多かった。 志願兵の青年ダニールの死 ロシア軍は今年1月15日、バフムートの北端から7キロの町ソレダールを、2月11日に同2キロの村クラスナホラを占領した。バフムートへの集中砲火が続くなか、1日で最大400人のウクライナ兵が死傷していると分析する研究機関もあった。 2月末、ウクライナの大統領顧問は、バフムートからの戦略的撤退の可能性について言及したが、ゼレンスキー大統領は否定した。そして3月6日、バフムート防衛継続について最高司令官本部会合を開催。大統領は「撤退せず、兵力を増強することで満場一致した」と発表した。 その頃、ドネツク州マリウポリ出身の若者2人が、志願兵として東部戦線で戦っていた。共に人道支援団体に所属し、筆者もメンバーの1人として一緒に汗を流した仲だった。 長身のボクダン・ペトリツキー(26)は昨年6月に入隊した。ボランティアの事務所に軍服でやって来て、「行ってくるよ」と挨拶を聞かされたときは驚いた。 今年2月、彼はドネツク州に派遣され、4月にバフムート行きを命じられる。任務は既に占領されていた市内に潜入し、ロシア軍の後続部隊を足止めさせることだった。 5月4日、ボクダンたちが活動していたのはバフムートカ川周辺。1カ月前にロシア軍に占領された一帯だった。 ===== けがの治療を終えて再びバフムートに向かうボクダン PHOTOGRAPH BY TAKASHI OZAKI 「われわれは川のそばにいて、近くの民家に身を隠そうとしていた。その時、迫撃砲が飛んできて、炸裂したミサイルの破片が足に当たった。出血が止まらなかったが、自分で止血帯を巻いて車両まで避難した」 敵の追撃を避けるため、軍用車両はバフムートから猛スピードで脱出。ボクダンは北西へ30キロほどのところにあるクラマトルスクの病院で緊急手術を受けた。 持ち前のユーモアでボランティアの仲間を笑わせていたダニール・ミレシュキン。昨年夏、キーウにある自動車部品工場に就職した彼が、その後入隊したことを筆者は知らなかった。彼の名を聞いたのは今年3月、義理の弟でボランティアメンバーのローマン・チェボターリョブ(28)からだ。 「兄とは週に1度ほど電話をしていた。バフムートで偵察任務に就いていて、『明日早いから、またかけ直すね』と言って電話を切った。次に届いた連絡はその翌日、実の妹である私の妻に宛てた死亡通知だった」 ダニールの妹アンナ(25)は妊娠8カ月だった。ショックで泣き崩れるアンナの代わりにダニールの身元確認に行ったローマンは、軍の関係者からその時の状況を聞かされた。 「現場はバフムートの一番中心の辺りだったそうだ。同行していたのは狙撃手、地雷探査兵など8人で、兄はライフルを持っていた。早朝に出陣する攻撃部隊に情報を伝えるため、ひっそりと移動しながら偵察していたとき敵に見つかり……彼らは殺されてしまった」 3月19日午前3時30分、ダニールは暗闇の街で30歳の生涯を閉じた。 バフムートで命を落としたウクライナ兵は数千人に上るという。ダニールの墓があるザポリッジャの丘には新たな戦死者の墓が一つ、また一つと増えている。 バフムートで戦死したダニールの墓 PHOTOGRAPH BY TAKASHI OZAKI 1日200発の砲撃を計画 ウクライナ軍の反転攻勢はいつ始まるのか──この数カ月、国内外で高い関心を呼んだテーマだった。 「バフムート周辺で昨日始まったんだって」 こう耳打ちしたのは、筆者の通訳をしてくれている聖職者のニキータ(20)だった。ウクライナ軍の攻撃拠点を取材することが許された5月12日、バフムート方面歩兵部隊通信部の司令官ローマン・ホールベンコ(47)が伝えてくれた情報だった。 ===== ディープステートマップを開くと、5月12日0時34分に更新された画面に確かに変化があった。バフムートをのみ込むようにせり出した南西方向のロシア軍占領地に、初めて「liberated(解放された)」場所を示す青色のエリアが表示されたのだ。解放地は3カ所で、面積は合わせて約4平方キロ。昨年4月28日から380日間、ロシア軍に攻め込まれ続けてきたバフムート周辺で、ウクライナ軍の反撃が開始された。 ローマンはタブレット端末を使って攻撃拠点の方角を確認し、「ここを左に行ってくれ」と、草原を走る軍用車に指示する。スラビャンスクの基地を出て30分、バフムートまで10キロの地点にある林の前で車は止まった。木陰に沿って200メートルほど歩くと、茂みの中に6人の兵士がいた。 「調子はどうだ」と、ローマンが声をかけた先にあったのは山積みのミサイル。2メートルほどの深さに掘られた塹壕を進むと、がっしりと組み上がった大砲が姿を見せた。米軍が採用している牽引式榴弾砲M777だ。 M777発射に備える兵士と慰問に訪れた聖職者のニキータ(写真右) PHOTOGRAPH BY TAKASHI OZAKI これまでアメリカなどからウクライナに供与されたM777は150門以上。一時期、砲弾不足で1門当たり1日5発しか発射できないこともあったというが、反転攻勢を始めた今は、バフムート周辺で1日200発の砲撃を計画している。 「ピー」という発射準備の笛を合図に、レバーを回し砲身を起こす兵士たち。現地の司令官バレリー・オレフィレンはスマートフォンに映る攻撃目標を凝視している。ロシア兵が待機場所にしている建物だという。このドローン映像を送ってくるのは、バフムートから20キロのところにあった、あの前線本部にいるオペレーターだ。 「ガルマータ!」 発射の掛け声は大砲を意味するウクライナ語だった。反動で地面も木々も揺れる。着弾の様子をドローン映像で確認するバレリー。畑のそばにある民家の1つが一瞬で吹き飛んだ。「This is our work(これがわれわれの仕事だ)」と言って親指を立てると、バレリーはすぐに次の発射準備に取りかかった。 ===== 「全てが悪い夢のようだ」 この日15時58分に更新された地図には、バフムートの北西方面にあるロシア軍占領地に2キロほどのくぼみができていた。その後くぼみは2キロ、さらに1キロと広がり、解放地として色付けされた。 そして、ウクライナ軍によるバフムートの「逆包囲」と伝えられるようになった頃、大規模攻撃のXデー6月8日を迎えた。 だがザポリッジャやドネツク州中部での成果が発表されるなか、バフムート周辺の反転攻勢は数週間、止まっているように見えた。ウクライナの政権幹部が主張してきたとおり、バフムートはロシア軍を引き付け消耗させる役目を担う地で、結果として捨て石にされてしまったのかもしれない。 バフムートで戦死したダニールの妹アンナと赤ん坊のキラ、夫ローマン、長女、長男 Courtesy Roman バフムートで命を落としたダニールの妹アンナは、6月に次女を出産した。付けた名前はキラ。響きが美しいから、と話してくれた。大規模攻撃が始まって2週間、兄のことをどう思うか尋ねた。 「兄の死は私たち家族にとってつらい話題なので、あまり話しません」 キラを抱きながらこう語ったアンナ。しばらくすると、目に涙があふれてきた。アンナの親友で、マリウポリ出身のサッシャ・アリフレンコ(23)が、バフムートへ赴いたダニールと家族の思いについて伝えてくれた。 「ダニールはとても強い愛国者で、『役に立ちたい。英雄でありたい』と願っていた。しかしアンナは彼が戦いに行ったことに腹を立て、彼を止めることができなかった自分を責めたのです。ダニールの父も、息子の代わりになって死ぬことを望んだ。 ウクライナでは多くの人が戦地に赴くけれど、彼らを愛する人たちは非常に心配していて、ほとんどの場合入隊を望んでいない。全てが悪い夢のようだ」 アンナの親友サッシャ(写真奥) PHOTOGRAPH BY TAKASHI OZAKI
ソース:https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/08/post-102465.php
戦場での兵士たちの勇気と困難についての物語が描かれています。特に、戦車や装甲車の不足にもかかわらず、彼らがどのように戦い続けたのかには感銘を受けました。また、戦闘中に起こった誤解やパニックの状況も興味深いです。素晴らしい記事だと思います。